自己肯定感が足りないよね。とか、自己肯定感を高めようとか言われるじゃない?
自己肯定感って何だろう。
例えば、ある日、他人からこう言われたらどう思う?
「君、自己肯定感高いね。」
ここに含まれる自己肯定感って何?「自惚れ」「自意識過剰」「ナルシスト」「自己中心的」そんな印象を受けないだろうか。何だか無駄に明るいか、自慢しがちなやつを想像しない?日本では「謙遜」こそが素晴らしいとされてきた文化があるから、「自分を積極的に肯定しようぜ!」なんて言うと、ついつい「ハイハイ。うざいねナルシスト。」となる。
「あいつ、自己肯定感高すぎてウザくない?」「わかるー自己中だよね」
なんて会話も成り立ちそう。
でもちょっと待って、それ、違いますから。まったくもって違う。
「自意識過剰」で、「周りに自分をアピールしまくって」、「自己中心的」な人は・・・
「自己肯定感がめちゃクソ低い人。」
なのです。そもそも自己肯定感の定義を間違えているのだ。
はい、辞書で調べます。
自己肯定感
自分のあり方を積極的に評価できる感情、自らの価値や存在意義を肯定できる感情などを意味する語。 自己否定の感情と対をなす感情とされる。
「自分のあり方」を評価し、「自らの価値や存在意義」を肯定できる感情。
つまりね
「私は私のまま、ここにいていいんだ」
って思えることなんだよ。決して、「私はすごいんだぞ!」って周りにアピールすることじゃないんです。もっと静かなもの。
「あ、私は私なんで」
って心の中で思える状態。これが自己肯定感が高いということなのだ。
自己アピールしまくる人は、実は自己肯定感が低くて、「私を見て!」「私を認めて!」「そうじゃないと私は存在意義がないの!」って叫んでいるんだね。
これ、小学校・中学校のクラスを見ていると、顕著にわかる。いなかった?
「とにかく自分をアピールする」タイプ。
もしくは「ひたすら周りを攻撃する」タイプ。
「嘘をついてでも話題を提供する」タイプ。
あ、会社でも同じか。いるよね、きっと。
そういう人って、一見自分に自信があって、周りを引っ張る中心人物に見える。
でも実は心のグラスがカラッカラで、「私を見て!」って叫んでる。そういう子が置かれている環境を静かに眺めるとね、共通点が見えてくるんだ。
家庭がとっても厳しいか
家庭がとっても無関心か
だいたいどっちかになる。やっぱり生活の基盤は家だから。
「こうじゃなきゃダメ」「もっとやりなさい」「あなたは足りない」と言われ続けると、どんどんグラスは空になる。親に褒められた時だけ満たされた気分になるけれど、それって自己肯定感ではない。他者評価でしかないんだよ。
どんなに勉強ができなくても、どんなにスポーツができなくても、どんなに経済的に貧しくても、自己肯定感の高い人はいる。だって、自己肯定感っていうのは「自分の良いところを無理やり探す力」じゃなくて、「良くも悪くも俺は俺」を認める力だから。
じゃあどうやったら高くなるの?
簡単な話。お互いを認め合えばいい。家族でもいい、友達同士でもいい。誰か自分以外の他者と「認め合う」経験が、自己肯定感を高めてくれる。「君は君でいいね。ボクもボクでいいけど。」ただただ肯定してもらえる関係が一つでもあると、人は自信を持っていられるんだ。
本当は家庭がそうでありたいけれど、そうもいかないことも多いよね。
どうしても難しいのなら、自分同士で認め合っても構わない。
「俺、ここがいいけど、ここはダメだよねぇ。
うん、これが今この瞬間の俺だよね。オッケー。」
そうやってちょっとずつ認めていく。人は常に成長するから、定期的にやってみよう。
今はこれができるね。今はこれが苦手だね。それが私だね。オッケー。
これでいい。良いとか悪いとかは考える必要なし。人と比べる必要も全くない。
今の私を、俯瞰するの。もし可能なら、紙に書き出すといいよ。パソコンに打つでもいい。
「自分」がそこに見えてくる。繰り返すけど、決してジャッジしちゃいけないよ。
ただ、受け止めればいいんだ。
ありのままの自分を俯瞰できた時、あなたの自己肯定感は高まるんだ。
他者の評価なんて、他者の主観でしかない。
俺は、俺でいいんだぜ。
君は、君でいいんだぜ。
そして、誰もが成長していくんだぜ。